【書籍情報】
タイトル | 式子内親王の歌の世界(一) |
著者 | 横尾湖衣 |
イラスト | E缶 |
レーベル | 夕霧徒然双紙 |
価格 | 350円 |
あらすじ | 式子内親王は、平安時代末から鎌倉時代初頭の大動乱期を生きた女性。その歌は『新古今和歌集』に四九首入集していて、女性歌人として第一位であります。賀茂の斎院として少女期を過ごされ、和歌に情熱を傾けられました。その艶麗なる歌、重層的な余情のある歌の世界へ誘う1冊。人気シリーズ『和歌文学シリーズ』の六冊目です。 |
【本文立ち読み】
式子内親王の歌の世界(一)
[著]横尾湖衣[イラスト]E缶
―目次―
はじめに
第一章 式子内親王について
第二章 絶え絶えかかる雪の玉水
第三章 忘るな軒端の梅
第四章 仮寝の野辺の露の曙
第五章 ほのかに通ふ秋
第六章 秋きぬと告げし風
主な引用・参考文献一覧
あとがき
第一章 式子内親王について
式子内親王の「式子」は、「ショクシ」とか「シキシ」とか「ノリコ」等と読まれていますが、多くは「ショクシ」と音読されています。
後白河《ごしらかわ》天皇の第三皇女として生まれ、少女時代を賀茂斎院《かものさいいん》として過ごされました。平安時代末から鎌倉時代初頭の大動乱期を生きてこられた皇族女性です。大動乱期と書きましたので、今ひとつしっくりと来ない方もいらっしゃるかもしれません。式子内親王が生きた時代は、古典文学でいえば『平家物語』の世界です。他に、鴨長明《かものちょうめい》の『方丈記《ほうじょうき》』や建礼門院右京大夫《けんれいもんいんうきょうのだいぶ》の『建礼門院右京大夫集』等の作品からも、その時代の一端を知ることができます。
式子内親王の母は高倉三位《たかくらのさんみ》という女性で、藤原季成《ふじわらのすえなり》の娘である成子《せいし》(「しげこ」とも)です。この高倉三位は後白河天皇との間に六人の子をもうけましたが、身分的には皇后・中宮・女御という妃ではありませんでした。かなり不安定な身分、立場にあった女性だったことがうかがえます。
母高倉三位の身分・立場が不安定だった理由のひとつは、少なくともその父である季成が関係していたと思われます。なぜなら、季成は閑院系《かんいんけい》藤原氏だからです。閑院系は同じ藤原氏でありましても、とうてい摂政・関白の座に至ることのできない家系になります。このことから、高倉三位の身分については、何となくご理解いただけるかと思います。
またさらに、高倉三位の父季成は大納言・藤原公実《ふじわらのきんざね》の子で、待賢門院《たいけんもんいん》・藤原璋子《ふじわらのしょうし》(「たまこ」とも)とは同腹でありました。その璋子は、後白河天皇の母です。つまり、高倉三位と後白河天皇は「いとこ」という関係になります。平仮名で「いとこ」と記しましたのは、後白河天皇の生没年については記録が残されていますので判明していますが、高倉三位については没年のみで生年が未だにわからないままだからです。
後白河天皇との間に六人もの子をもうけた高倉三位は、紛れもなく天皇の寵愛を受けていたと言えるでしょう。しかし、貴族社会においては後見である実家の力が生活に影響します。もちろん式子内親王を含む六人の子たちにも、母方の親族である外戚の存在は大きく影響してきます。
式子内親王の同腹の姉妹・弟は、殷富門院《いんぷもんいん》(亮子《りょうし》内親王(「あきこ」「すけこ」とも))・好子《こうし》内親王(「よしこ」とも)・守覚法親王《しゅかくほっしんのう》・以仁王《もちひとおう》・休子《きゅうし》内親王(「「やすこ」「のぶこ」とも」であります。式子内親王の生年は不明でありましたが、現在その生年は確定されています。
確定されるに至った資料は、兵部卿《ひょうぶきょう》・平信範《たいらののぶのり》の日記『兵範記《ひょうはんき》』(『人車記《じんしゃき》』とも)であります。その『兵範記』の嘉応《かおう》元年七月二十四日の条に、式子内親王が賀茂斎院を退下《たいげ》(斎王の任を退くこと)したことに関する記事があります。その同日の条の裏書に、
□斎王、高倉三位腹、御年廿一
と記されていました。そこから、式子内親王の生年は久安《きゅうあん》五年(一一四九)であることが確定できるようになったのです。式子内親王の生年が確定されたことにより、久安六年生まれの守覚法親王と仁平《にんぺい》元年(一一五一)生まれの以仁王は弟であることがわかりました。
姉の殷富門院は伊勢斎宮《いせのさいくう》に卜定《ぼくじょう》(斎王を占いによって選ぶこと)され、斎宮となり伊勢へ下りました。後に、安徳《あんとく》天皇の准母《じゅんぼ》(天皇の生母に準じる立場として、公的に認められた)となったことで皇后と尊称《そんしょう》されました。さらに、後鳥羽天皇の准母となり、院号をゆるされ殷富門院と号しました。
次の姉の好子内親王も斎宮に卜定され、妹の休子内親王も斎宮に卜定されました。好子内親王については妹という説(『本朝皇胤紹運録《ほんちょうこういんじょううんろく》』)もあります。中山忠親《なかやまただちか》の日記『山槐記《さんかいき》』では好子内親王を次女、式子内親王を三女としています。好子内親王の生年がわかりませんので、どちらが年長であったかはまだわかっていません。
そして、弟の守覚法親王ですが、出家して僧籍に入っています。法親王というのは、出家した後に親王宣下を受けた皇子のことです。
式子内親王の同母の姉妹・弟は、以仁王以外は親王・内親王の宣下《せんげ》を受けています。しかし、以仁王は親王宣下を受けることができませんでした。源平を中心とした動乱の時代、おそらく皇位継承から遠ざけるために皇子たちは出家させ法親王とし、皇女たちは神事に仕える内親王として斎王とされたのでありましょう。内親王ともなれば、身分的には親王もしくはそれと同等の実力者との結婚が望ましいからです。内親王と結婚できる身分の者が少なかったこともあるかもしれませんが、やはり政治的な面の作用もあったと思われます。
第二章 絶え絶えかかる雪の玉水
山深《やまふか》み
春とも知らぬ
松の戸《と》に
絶《た》え絶《だ》えかかる
雪の玉水《たまみづ》
***
『新古今和歌集』の巻一・春上に収められている歌で、
山が深いので、春(が訪れたの)だともわからない山の家の松の戸に、とぎれとぎれに落ちかかる美しい雪解け水のしずくよ。
というような意味の歌です。
この歌は、『式子内親王集』(正治《しょうじ》二年百首・春)にも収められています。
***
「山深み」は、「山が深いので」と訳します。古文での形容詞は「深い」ではなく、「深し」と「し」で言い切ります。つまり、「高い」は「高し」、「美しい」は「美し」が言い切りの形、終止形になります。
形容詞は「し」の部分が活用します。活用とは、その単語の後ろに接続する語によって、その単語の形が変わることを言います。「深い」を否定したいときは、「深い」の後ろに「ない」という語を付けます。そうしますと、「深い」+「ない」は「深くない」となります。「い」の部分が「く」に変わっています。その変わることを「活用」というのです。古文の場合、否定したいときは、打消《うちけし》の助動詞「ず」や形容詞「なし」を下に接続させます。「深し」+「ず」は「深からず」、「深し」+「なし」は「深くなし」となります。「し」の部分が「から」と「く」に変化しています。この部分を、その単語の活用語尾《かつようごび》と言います。そして、動かない「深」の部分を語幹《ごかん》と言います。
話を元に戻しまして、「山深み」の「山」は名詞、「深」は形容詞の語幹、「み」は接尾語と分解できます。「体言(名詞)」+「形容詞の語幹」+「―み」の形で、原因・理由を表します。「~が~ので」と訳します。
この「形容詞の語幹」に「―み」という語尾を接続した語形を用いる語法を、「ミ語法」といいます。「ミ語法」は上代以前に用いられていた語法です。「ミ語法」は上代に隆盛を極め、その用例は『万葉集』の中に多く見られます。中古以降は衰退形骸化したとされていますが、和歌の中に用いられている例は意外と多く見当たります。
ミ語法で詠まれている歌が、他にも式子内親王の歌の中にあります。その用例を次に挙げます。
露さむみ
わくれば風に
たぐひつつ
すがるなくなり
をのの萩はら
〈歌意〉「露が冷たいので、萩の野を分けて行きますと、風に伴ってすがる(鹿)が鳴いているようでありますよ。(露の多い)小野の萩原よ」
出典『式子内親王集』(「建久《けんきゅう》五年五月二日」という奥付を持つ百首・秋)
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