「弓」と日本人

【書籍情報】

タイトル「弓」と日本人 シリーズ:日本の心をたずねて
著者横尾湖衣
イラスト
レーベル夕霧徒然双紙
価格350円
あらすじ日本というものがだんだん希薄になっていく時代、日本とはいったい何なのだろうか? 日本人とはどういう心を持っているのだろうか? 日本の伝統と文化、特に日本の古典である物語や和歌、体験等のフィールドワークを通して、その心を探りながら自由に思索していくエッセイ第三弾。今回は古典文学や神事の中にある「弓」をピックアップ。

【本文立ち読み】

「弓」と日本人
[著]横尾湖衣

*本著をお読みになる前に、予め一言お伝えしておきたいことがあります。
今現在の電子書籍の技術と申しましょうか、実は電子書籍で表示できる漢字は第二水準までになります。そのため、本著では表示できない漢字をカタカナ表記で表示させていただきます。例えば、太陽を射落とした英雄の名「ゲイ」。ゲイは漢字で書くと上部が「羽の旧字」で下部が「にじゅうあし」になります。
また、代替えできる漢字は代替え表記で対応表示させていただきたく思います。例えば、「ヌエ」です。本著では「鵺」という漢字で表示します。しかし、文献で表記されている漢字は左が「空」、右が「鳥」になります。これは環境依存文字ですので、電子書籍で表示しようとしても表示ができないのです。
ご不便等をおかけいたしますが、どうぞご理解ほどをよろしくお願い申し上げます。

 

目 次

◆序 章 はじめに
◆第一章 歩射神事
◆第二章 太陽を射落とした英雄「ゲイ」
●第一節 中国古典の中の「ゲイ」
●第二節 日本の古典の中に見える「ゲイ」の受容
◆第三章 古典の中の「弓」の話
●第一節 『伊勢物語』(「梓弓」二四段)
●第二節 『大鏡』(「道長と伊周の競射」)
●第三節 文武両道の「義家」と「頼政」
●第四節 『平家物語』(「那須与一」)
◆第四章 古典の中にみえる「弓」あれこれ
◆終章 おわりに
◆主な引用文献・参考文献一覧
◆あとがき

◆序章 はじめに

日本には剣道、茶道というような、精神性を重視する伝統的な芸道がある。空手道にも華道にも「型」というものがあり、その道の師匠はたいてい「型」を弟子に教える。師匠は型を教えるが、その理由は教えてくれない。だから、弟子は繰り返し繰り返し稽古をし、その型を習熟させていくことに専念する。そして、ある時ハッと気付くのだ。型の集積は、体に知をつけていくことにほかならないということを――。

世の中、いくら言われても頭ではわからないことがある。師匠が弟子に型だけを教え、その理由を教えてくれないのは、頭だけでは理解仕切れないからなのだと思う。
また、体で覚えたこと、体に身についたことは忘れにくいとよく言われている。「型」を覚えるということは、実はとても大切なことなのかもしれない。
数学の公式もある意味「型」である。その公式を使えるようにするため、計算練習するための問題集等が存在する。問題を繰り返し解いていき、基礎を固める。
漢文の句形もそうである。型をまず覚えて、それが使えるようになって初めてその文が解読できるのだ。それに素読も大事である。その文が持つ独特のリズムを感じながら音読し、何度も声に出して読んでいくことで、「この語句の意味は何だろう?」と気づく。どう意味なのだろうという疑問から、だんだん関心を持つようになる。そして、自ら調べ探求し、どんどん深めていく。そうやって、おそらく我々の祖先たちも身につけてきたのだと思う。

「型」は「体に知をつけていくこと」と先に記したが、「型」も知識のひとつである。知識の詰め込みは昨今良くないことのように言われているが、果たして良くないことなのであろうか。
ある程度の知識は必要だと思う。なぜなら、知識は概念に直結してくるからである。例えば、パグ犬。「犬」という概念を持っていれば「犬」と認識できるが、持っていなければ単なる動く物で「動物」である。「パグ」という知識・概念はなく、「犬」と「ブルドッグ」という知識・概念は持っていたとしたら、小さいので「ブルドッグの赤ちゃん」となろうか? 実際、そう何回も言われたことがある。
そう言えば、かつて海外旅行でこういう経験をしたことがある。こういう経験とは、食事をした時に生じた会計トラブルのことである。私はその時、九人の知人たちとのんびり卓を囲んで食事をしていた。食後、何か飲み物を飲みたい者は、それぞれ追加注文した。その追加注文したドリンクの代金が、私たちの計算とは合わなかったのだ。
ソフトドリンクの代金は一律二ポンドだったので、追加注文をした者たちはそれぞれ二ポンドずつ用意し、それをまとめて出した。しかし、お店側から二ポンド少ないと言われたのだ。ドリンク代は一人二ポンドで、十人のうち九人が注文した。間違いなく十八ポンドである。それなのに、二ポンド少ないと言われるのはおかしいと、私たちは抗議した。
私たちはドリンクのグラスを一箇所に集め、みんなでグラスの数を数えた。グラスの数は九つである。私たちは「二九《にく》、十八」だから、十八ポンドで間違いないと改めてお店側に抗議した。しかし、お店側は計算したから間違いないと言う。そこで、私たちはテーブルのグラスをスタッフの前に並べた。そして、グラスは九つしかないと根拠を示したのだ。
それでも、相手は二十ポンドだと譲らなかった。私たちは注文票を確認させてもらった。その注文票にも「9」と書いてあった。そこから推察するに、お店側は「9」という数字は根拠にならないと判断したのかもしれない。私たちは、とにかく十八ポンドだと負けずに言い返した。私たちがあまりにも譲らなかったからか、そのスタッフは紙に書いて計算したから間違いないというようなことを説明しだした。そこで、私たちはその計算した紙を見せて欲しいとお願いした。
その計算した紙を見ると、「2」という数字が横並びに九つ書いてあって、「2」と「2」を結び「4」という計算がしてあった。その「4」と「4」を結んで「8」。さらに「8」と「8」を結んで「16」。計算は、こんな具合に足し算されていた。その足し算の紙から、真ん中に書かれていた「2」が右隣の「2」と足されて計算されているのに、さらに左隣の「2」とも足されていたのを発見した。私たちはその箇所を指摘し、事なきを得た。

私はこのとき概念というものを実感した。私たちは掛け算の概念、お店側は足し算の概念と、違う概念で計算し主張していた。ミスさえなければ結果は同じになるのだが、この差異は興味深い。概念もひとつの知識である。その知識をどう使っていくかは人それぞれである。
そもそも計算という概念がなければ、掛け算も足し算もすることはない。つまり、知識がなければ、そういう発想ができないということである。
確かに、知識がなければ事に当たることができない。たとえば、誰かが怪我をした。その怪我に対する知識がなければ、どう対処するのだろうか。知識があるからこそ対処ができ、また発展させたり応用させたりできるのだと思う。なぜなら、物事は自分の持つ知識から考え、それぞれに合わせてその知識を使うからである。
もちろん人間には限界がある。すべてを知ることは不可能だということも、充分承知している。だからこそ、人は生きている限り学び続け考え続けるのだと思う。

 

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