【書籍情報】
タイトル | 嘘は嫌い、キツネアザミをかたらないで。 |
著者 | 服部汐里 |
イラスト | みずききょうや |
レーベル | アプリーレ文庫 |
価格 | 350円+税 |
あらすじ | 信市は、作り物のような毎日を空虚に生きる男子高校生。 ある日を境に、不気味な夢を見るようになる。 しかし、現実であるはずの学校へ行くと、幼馴染と風紀委員のふたりの女の子の身に夢よりも奇妙な現象が起こっていた。 叶えたい夢があった。醒めないでほしい夢があった。 何もなかった。 そんな三人の思惑の行き着く先は――。 |
【本文立ち読み】
高校二年生の五月のことである。
ゴールデンウィークが明けてから、最初の登校日の朝だった。
連休中の怠惰な生活の影響か、ぼくは半分眠ったようなぼんやりした気分のままで通学路を歩いていた。梅雨をひかえた湿っぽい風が頬を撫でる。植え込みのつつじの赤紫が鮮やかで、幼少期に蜜を吸って遊んだことが懐かしく思い出された。初夏というにはまだ早いけれど、たしかに夏の気配がする。はたして去年もそんなことを考えていたのだろうか。ぼくはそんなに情緒が豊かな人間ではない。けれど、いつになく感傷的な気分で路地に目を向けた。特に理由はなかったが、何故だかそうしなければならない気がしたのだ。虫の知らせ、あるいは生き物の本能で何かを察知したかのような感覚である。
人気《ひとけ》のない生活道路に、人の形をした影を見つけた。
少女が、倒れていた。
彼女は右の頬を下にして、うつ伏せになって転がっている。ぼくが通っている高校の女子制服を着ていた。セーラー服のスカーフの先端が、地面に沿ってこちらを向いている。まるでぼくを指差しているかのようだ。傍には、白い乗用車が停車しているようである。フロントガラスが蜘蛛の巣のようになって割れていた。運転手の姿は見えない。
そこでようやく、まどろんでいた脳みそが醒めてきた。交通事故だろうか。きっとそうに違いない。彼女は大丈夫だろうか。彼女は――。
少女の髪が血に濡れているのに気付いたら最後、ぼくの頭はけたたましい危険信号とともに目覚めてしまう。異常事態を正確に認識してしまった。
救急車を呼ばなければ、とスクールバックからスマートフォンを探し出す。けれど、端末は乾いた音を立てて舗装された道路へ転がってしまった。自分でも信じられないくらい指が震えている。しゃがみこんでスマートフォンを拾い上げると、今度は液晶に指紋がべったりとついているのが妙に気になってしまった。握った手のなかが汗でベタつくのが不快でたまらない。
息を吸っているのに、肺が満たされない。呼吸もままならないまま、通報しようと指で液晶を叩いた。ワンコールで繋がった。受話器から聞こえてきた声に従い、少女の状態を伝えるため、彼女を凝視した。
どこかで見た顔をしている。
ああ、そうか。彼女は、クラスメイトの――。
そこで、スマートフォンの目覚まし機能が朝を告げた。
ぼくは布団のなかにいる。見えるのは、いつも通りの天井だ。あれはただの悪夢だった。見慣れた毛布と、枕と、勉強机に散らばる教科書、壁にかかった制服、文化的な生活。そうやってひとつひとつ現実を確認していくと、ドクドクと高鳴った胸の音が静かになっていく。次第に穏やかなリズムを取り戻すと、額にはりついていた前髪を手の甲ではらった。
手慰みに机のいちばん手前にあった歴史の教科書をめくる。横文字の羅列に不自然な黒塗りと改行があった。それ自体も気味が悪いが、いちばん気持ち悪いのは自分の頭だ。昨日まではそこに何かの文章が書いてあったはずなのに、削除されたものが何であったのか思い出せない。落ち着いたはずの胸の鼓動がまたざわめいてくる。
深呼吸をして――それから、見なかったことにした。
カーテンの隙間から見える外の様子は快晴だ。
太陽の光は、季節外れのすすきの穂の色をしていた。
ぼくは支度をして、学校へ向かう。風は相変わらず湿っぽい。けれど通学路には誰も倒れていなかった。夢でよかった。心の底からそう思った。
〇
「信市《しんいち》、おはよう」
「遅かったね、信市くん」
「信市! 宿題写させて!」
廊下ですれ違う女子はみんな、元気そうな声でぼくを呼んだ。見える範囲では、怪我をしている様子もない。今朝のあれは夢だったし、正夢にもならなかった。普段は宿題を写させてほしいと言われたら腹が立つものだけど、今日は違うみたいだ。彼女たちが無事に登校できたならそれでいい。
そこでふと、ある違和感に立ち止まった。
ぼくが特に親しいわけでもない女の子たちから行く先々で挨拶をされるなんて、それこそフィクション――夢みたいだと思わないか。ぼくは普通の男だ。そして普通の男子高校生が一斉に大勢の女の子から好かれるなんてことがあったら、それは夢に違いない。ここは本当に現実の学校なのだろうか。
――でもまあ、みんなが元気ならば気にすることもないか。基本的に、考えかたが雑なのだ。深く考えないかわりに特定の物事に深入りしない。だから、誰かから特別な好意を向けられたことがないのだろう。元々その手の話には頓着していない。興味がないのだ。ものぐさだから。ぼくは自分のことをそういう人間だと思っている。
席に坐ると、背後から甘ったるい声がした。
「信市、今日もノート貸してほしいなぁ。お願い!」
十中八九、亜科狸《あかり》だろう。小学校からの腐れ縁だ。この手のやりとりも、もはや人生で何度目なのかわからない。ぼくは振り返らずに答えた。
「後でな」
「それじゃ意味ないじゃない。一限に間に合わないよ」
彼女は黒髪のお団子ヘアに、たれ目で小柄で、そばかすがあって――胸が、大きい。別に、彼女のことを変な目で見ているわけではない。ただの事実だ。子ども時代を知っている相手に対して、今さらどうこうなろうとは思わなかった。そもそも彼女は友人だ。向こうからすれば、ぼくは都合のいいノート代筆者程度の相手だろうけれど。
「ちょっと亜科狸さん。ノートは自分でとったほうがいいと思いますよ。新市も嫌がってるし」
今度は右横から聞こえてきた。最後のほうが何故か小声だ。こちらの彼女は風紀委員の狐菜津《こなつ》さん、であっているだろうか。先月のクラス替えの時に知り合ったから、彼女のことには詳しくない。スレンダーな体型と、ストレートの長い黒髪が綺麗な人だと思ったのが第一印象だ。銀縁の眼鏡をかけた、絵に描いたような真面目そうな生徒である。そのイメージは、ひと月が経った今日でも覆っていない。
「ありがとう、狐菜津さん。ちゃんと断るから大丈――」
大丈夫。
振り返りながら、そう言おうとして、声が出なくなった。
狐菜津さんの髪が、変なのだ。金色になっている。真面目風紀委員の面影はどこへ行ってしまったのか。「狐菜津さん、何か嫌なことでもあった? あなたが不良になるなんて……いや、逆かもしれない。校則が金髪を許したんだ。生徒全員にヘアカラーが解禁されたんだよ。そうに違いない」
「どうしたの、新市。新しい早口言葉?」
亜科狸が言った。振り返って発言者を確認すると、そこには焦げ茶色の丸っこい頭があった。連休前は黒髪だったはずだ。金髪ほどのインパクトはないにせよ、黒髪の群れにひとりだけ茶髪というのは結構目立つ。ほうじ茶のような、和風の落ち着いた色だった。
「早口言葉じゃない。あれは状況確認だよ。……で、亜科狸まで髪を染めたのか? あれか。せっかく自由な髪色が解禁されたんだから、ちょっと冒険してみたくなったんだろ」
「染めたんじゃないよー。ヘアカラーは今でも禁止だし。っていうか、もっとよく見てよ。髪色よりもすごいところが変わってるじゃない。ね、狐菜津ちゃん」
「バレてないなら、黙っててもよかったんじゃない?」
「いやいや、もう遅いって。諦めなよ」
ふたりは目を見合わせて、小声で喋っている。何か不都合なことがあったのだろうか。匂わされると、余計に気になる。ふたりを凝視した。髪色よりもすごいところ……それは意外にも、細部よりも全体を見渡した時に見えてきたのだった。
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