船乗りだった君に捧ぐ

【書籍情報】

タイトル船乗りだった君に捧ぐ
著者横尾湖衣
イラスト
レーベル詠月文庫
価格300円
あらすじレブンブルーと呼ばれる礼文島の海を見に、わたしは北海道へ行く。稚内から船に乗り、海を眺めながら礼文島へ向かう。
ところどころで船乗りだった君の手紙を思い出し、ある思いを秘めながら思い出の君と共にわたしは旅をする。

【本文立ち読み】

船乗りだった君に捧ぐ
[著]横尾湖衣

―目次―

船乗りだった君に捧ぐ

風の強い稚内《わっかない》は、夏の風が一番弱いという。一番弱いというが、海に突き出したような地域であるためか、稚内育ちではないわたしにとって風はそれほど弱くはなかった。
朝の空は軽い灰色の雲に覆われていて、時折、海猫の声が聞こえてくる。空を見上げると、大きく旋回しながら飛ぶ海猫の姿が二つ三つと見えた。
稚内の天気は変わりやすい。気象情報があってもないものに等しい。それは風によって雲の流れが変わりやすい、ということが原因らしい。
わたしは礼文島へ渡るために乗船し、出航するのを待っていた。船内のテレビが韓国のニュースを流し始めた。ここは日本だというのに、一気に外国に来た気分になった。
周りを見回して見ると、隣に座った人、前に座っている人、後ろの人、いずれも話している言葉は日本語ではなかった。韓国語のようなものも聞こえるが、ほぼ中国語だった。ふと気がつくと、テレビは中国のニュース番組に変わっていた。

船は定刻通り六時三十分に出航した。
本日の天気、曇り。南西の風が強く、時々、晴れ間あり。波の高さ、一.五メートル。

稚内を出港すると、雲の層の薄くなっているところから太陽の光が漏れてきた。光が漏れることにより、海が青く色づき輝き出す。
船が遠のいていくと、ノシャップ岬の形がはっきりとした姿を現わした。それはどんどん小さくなり、淡くなり、やがて水平線に消えていった。
前のテレビは香港のニュースに変わっていた。あちらの国のダブルデッカーバスの情報など、日本人にとってはどうでもいいものばかりだった。次はイギリスのニュース、そしてドイツ、タイと変わっていった。
やっと日本のニュースになった。どうもワールドニュースチャンネルだったようだ。日本の後はフランス、トルコ……。テレビなんて眺めていても仕方がない。わたしは席を立ち上がり、「労駕《ラオジャー》(すみません)」と声をかけて甲板に出た。

船外は風が強かった。しかし、波は穏やかそうに見える。海面は海だという程度にうねり、波は鈍角三角形で立ち上がる。その三角形の頂きとなる波先を巻いて、開脚体前屈のように水面に近づき、白くのびそのまま面に戻っていった。
ゆらゆらゆれる青い海の水面。広い海原は青い絨毯のようで、白い波はその上にまき散らされた糸くずのように見えた。
船は穏やかに海原を行く。前も後ろも右も左も、もう海しか見えなかった。海と空以外何も見えないところをひたすら進んでいく。わたしは代わり映えのしない風景をしばらく眺めていた。眺めているうちに、ふと船乗りだった君を思い出した。

船乗りの私は、もう一週間ほど島を見ていません。自分が、今どこにいるのかさえも分からなくなります。広い広い青く大きい水たまりの中に落ちた一匹のアリのような心境です。気が狂いそうになります。
そんなとき、私は体を動かします。意味もなく動かします。この閉鎖的空間の中のさらに閉鎖的空間の中にいる私は、動いていないと自分を保てなくなるからです。
運動することは体に良い、健康的だと、あなたはきっと言うことでしょう。なるほど、不健康よりはいいです。確かに、意識的に運動をしないとすぐに運動不足になります。だから、運動をすることはいいことなのです。
しかし、船乗りの私は疲れて何の心配もなく寝入ってしまうことは出来ません。私は何の心配もせずぐっすりと眠れる旅人ではないのです。船乗りは仕事ですから、運動のしすぎも良くないのです。何事にも加減というものがあることを、あなたもご存知だと思います。

――それでは、気晴らしにならないでしょう?

そういえば、以前あなたは手紙にこんな質問をくださいましたね。それについて、今ここで答えさせていただきます。

――はい、気晴らしにはなりません。

気晴らしにはなりませんので、私は体を適当に動かして体をメンテナンスした次は心、精神をメンテナンスします。
まず、気晴らしに陸《おか》の上のことを思います。陸の上の故郷のこと、家族のこと、自然など、とにかく片っ端から思い出して懐かしみます。しかしこれは、あまり思いすぎるとかえって精神によくありません。だから、途中で止めます。
次に、船が港に停泊したときのことを思い浮かべます。港に着いたら、酒を飲めるだけ飲むぞ。その国の、その土地の料理を食べながら、愉快に飲むぞ。港に停泊しているときは、心配なく酔いつぶれることができるからです。できると言っても、船まで戻らないといけませんが。
それから、仕事が無事に終わって家に帰ったときのことを考えます。大きな船での航海は何ヶ月と長いので、仕事が無事に終わると少し長い休暇がもらえるのです。だから、その時のことを考えます。
家はいいです。ベッドはゆれませんし、手足も目一杯伸ばせます。というのも、船の中の部屋は意外にも広くないからです。バカンスではなく仕事です。だから、もうおわかりだと思いますが、必要最低限しか用意されていません。この話はやめましょう。

私はひたすらひたすら海を行くだけです。着の身着のままのような荷物だけを持って、私はまだあと三ヶ月は船の中で過ごさなければなりません。
あなたの手紙は一週間前、マラッカの港で待っていたのを頂戴しました。私はもう十回は読んでいます。何の楽しみもない船の上で、あなたからいただいたお手紙は私にとって薬なのです。そして、何よりも嬉しいのは詩集です。手紙が陸の香りなら、詩集は花であり果実であり幻の酒であります。ああ、思わないところで楽しみが増えました。慰められます。
詩は何度読んでもいいものです。何度読んでも味わえます。詩は船乗りが読むにはちょうどいい量であり、長さなのです。下手に長編小説を読もうなんて手を出したら、寝不足になりますし、気になって仕事が手につかなくなる可能性があります。
だから、間違っても船乗りの気晴らしのために小説を送ってくれようなんて気を起しませんように。それも人によると思いますが、私は遠慮させていただきます。
最後に、あなたの手紙から陸の情報が得られ、本当に本当に有り難いです。これで私は一ヶ月陸に寄ることのない船の中でも、気が狂わずに生きていけます。

ちなみに、こんな私が船長です。お手紙をありがとうございました。

続きは製品でお楽しみください

Follow me!

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました